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8月は 歴史を見直し
自分の選択を再確認する月ですね

この写真にはいつも胸をえぐられます
(写真はここに掲載できません ごめんなさい)

選ぶ権利のないこどもたちに 二度とこんな経験をさせないように
なにを選択するのか 私たちには責任があります



敬愛するあすぱらさんの日記から

「歴 史」


「なぜ、歴史を勉強するの、べつにいいじゃん」と中学生は私によく言う。

少し間をおいて、じっと顔を見据えて、私は答える

「人類が歩んできた道を知り、同じあやまちの繰り返しをしないため・・・・・・ただそれだけのためかもしれないね」

たいていの中学生は、この言葉で、口をつぐんでしまう・・・皆、よくわかっているはず・・・

今日は、長崎に原爆投下の日

合掌





目撃者の眼  
報道写真家 ジョー・オダネル

1999年76歳になる
ジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の
報道写真家として
第2次世界大戦後の日本を撮った。


佐世保から長崎に入った私は、
小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が
目に入りました。

男達は60センチ程の深さにえぐった
穴のそばで作業をしていました。

荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の
中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が
歩いてくるのが目に留まりました。

おんぶひもをたすきにかけて、
幼子を背中に背負っています。

弟や妹をおんぶしたまま、
広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。

しかし、この少年の様子は
はっきりと違っています。

重大な目的を持ってこの焼き場にやってきた
という強い意志が感じられました。
しかも裸足です。

少年は焼き場のふちまで来ると、
硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、
首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、
5分か10分も立っていたでしょうか。

白いマスクの男達がおもむろに近づき、
ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。

この時私は、
背中の幼子が既に死んでいる事に
初めて気付いたのです。

男達は幼子の手と足を持
つとゆっくりと葬るように、
焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶ける
ジューという音がしました。

それからまばゆい程の炎が
さっと舞い立ちました。

真っ赤な夕日のような炎は、
直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。

その時です、炎を食い入るように見つめる
少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。

少年があまりきつく噛み締めている為、
唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、
少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。

(インタビュー・上田勢子)

[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]





「JALのスタッフだけが知っている心温まるストーリー」の中から…

「子どもたちとの約束 」


羽田発、沖縄行きの機内でポーンと軽快な音がして、
シートベルト着用のサインが消えた。

窓側に座った妻・友里は、
待ちかねたようにバッグの中から写真を二枚、取り出した。

光穂(みつほ)と真(しん)の写真だ。

「光穂、真ちゃん。
 ほら、もう雲の上まで来たよ。
 飛行機に乗ってるんだよ。
 見える?」

目に涙をいっぱいためた妻が、小さな声で二人に語りかける。
妻はあの日以来、全く笑わなくなってしまった。


1年前の3月11日。
津波は、私と妻の大事なものばかり奪っていった。
家はもちろん、しっかり者の母、穏やかな祖母、
そして二人のかわいい子どもたち。

私たち夫婦はあの日から抜け殻のようになってしまった。

たくさんのものがぽっかり抜け落ちた状態に耐え切れず、
「みんなのところに行こう」と言い出したのはどちらだったか、覚えていない。

みんなのところへ行く前に、せめて子どもたちとの約束だけは果たそうと、
私たちは沖縄行きを決めた・・・。


私たちは、海沿いの町から車で30分ほど走った商店街の一角でパン屋をしていた。
夫婦二人でもやっていけるほどの小さな店で、
焼きたてのメロンパンと、妻が改良に改良を重ねたラスクが人気だった。

私と妻は毎朝、光穂や真が寝ている間に家を出ていた。
母と祖母がいるから、安心して子どもたちを任せられたのだ。

それに、朝は早いけれど、
仕込みさえ終われば遅くない時間に帰ることができるから、
子どもたちと触れ合う時間もちゃん取ることができる。

ある日、売れ残ったパンを手に玄関のドアを開けると、
バタバタと子どもたちが走ってきた。

5歳の娘と3歳の息子がいつものように、
「パパ、ママ、あのね・・・。」と口々に話し始める。

私は光穂と一緒にリビングへ行った。

「ね・・・、パパ。スカイタイムって知ってる?」

「スカイタイム?」私は首を捻った。

「タイムっていうとハーブかな?」

「ちがーう」

「ええ?なんだろうースカイだから・・・空に関係してる?」

「ちょっとせいかーい」

「あのね、飲み物なんだよ。美味しいジュース!」

「へえ、新しいジュースが出たのか。幼稚園で飲んだの?」

ううん、と光穂は首を振った。

「スーパーとかには売ってないの。
 飛行機に乗ったら飲めるんだって、リオちゃんが」

リオちゃんというのは、光穂の一番仲のいい友だちだ。

「へえ。じゃあ、リオちゃん、飛行機に乗ったんだ?」

「うん、沖縄に行ったんだって。
 そのときに、飛行機の中で飲んだスカイタイムっていうジュースが、
 とっても美味しかったって言ってた。
 ね、パパ。光穂も飲んでみたい。飛行機、乗ろうよ」

「ジュースを飲むために飛行機ねぇ」

私が苦笑したとき、妻が真を連れて戻って来た。

「あら、何の話?」


「よし、じゃあ、今年の夏休みは沖縄に行くか!」と大声で叫んだ。

毎年、お盆には店を休んで家族で旅行をしている。

「本当?やったぁ」と光穂が飛び上がって喜んだ。

そして、キョトンとしている弟に、
「真、飛行機乗れるんだよ!スカイタイム、飲めるよ!」と言ってぎゅっと抱きしめた。

「え、飛行機?乗れるの?やったぁ!ぼくはね、コーラ、コーラがいいの!」

息子は特別な日にしか飲ませてもらえないコーラが大好きだ。



「お客さま、お飲み物はいかがいたしましょうか。」

そっと声をかけられ、私は妻の頭ごしに見ていた雲海から機内へ目を戻した。

窓に顔を貼り付けるようにしていた妻がポツリと「スカイタイム」と呟いた。

「スカイタイムと・・・コーラを」

きっと真ならそう頼んだだろうから。

益田という名札をつけたCAさんが、
妻のテーブルにスカイタイムを、
私のテーブルにコーラの入った紙コップを置いた。

そして、スカイタイムの入った紙コップを
更に二つテーブルに置いた。

不思議に思い、顔を上げると、彼女は

「お子さまの分もと思いまして・・・よろしければ、どうぞ」と微笑んだ。

妻が手にしている二枚の写真が見えていたらしい。

初めて飲むスカイタイムは爽やかな、柑橘系の味だった。

「スカイタイム、美味しかったです」

「ありがとうございます」

感じのいい笑顔に、私はつい、
「娘が、幼稚園の友だちからスカイタイムというジュースがすごく美味しいって聞いてきましてね。
 飲みたがっていたものですから、じゃあ、夏休みに飲みに行こうねって約束してたんたんです」と言った。

過去形で話している自分に気付いて、私は口をつぐんだ。
そうだ、子どもたちの話はもう、過去形でしか話せないのだ。
永遠に。

「二人とも、去年の震災で」

ぽつんと呟くと、「それはざそかし・・・」と彼女は言葉を飲み込んだ。

そして、通路にそっとしゃがむと、私と視線を合わせた。

「お子さんのお名前、なんとおっしゃるんですか?」

「幼稚園っておっしゃっていましたけれど、光穂ちゃんが…?」

「ええ、そうです、5歳の年中さんで」

「じゃあ、真ちゃんは」

「3歳でした」

気がつけば、私は益田さんに子どもたちの話をたくさんしていた。
思い出すと辛くて、眠れなくなるほど苦しくなる子どもたちのことを、
こうして楽しそうに話す自分が不思議でたまらなかった。

益田さんに釣られたわけではないけれど、
現在形で子どもたちのことを話すと、まだ二人が生きているようにも思えてくる。

そう言うと、益田さんは優しく微笑んだ。

「だって、光穂ちゃんも真ちゃんも、
 お父さんとお母さんの中で生きておられるから」

私はハッと彼女の顔を見つめた。
いまのいままで、そんなふうに考えたことがなかった。
そんなふうに考えられる余裕がなかった。

益田さんは、手にしていた小さな紙袋を私に手渡した。

「これ、光穂ちゃんと真ちゃんに。どうぞ」

中を覗くと、クリアファイルやシールやボールペン、
そして、かわいらしくラッピングされたキャンディの袋が二人分、入っていた。

子供用のノベルティらしい。

「光穂ちゃんと真ちゃんのご搭乗記念です」

と益田さんが微笑む。

「光穂。真。飛行機に乗れて、本当によかったね」

妻は二人にそうささやくと、写真をそっと紙袋の中へ入れた。
まるで光穂と真がグッズを嬉しそうに抱きしめているようだった。


一番最後に飛行機を降りた私は、
見送りをしてくれている益田さんに両手を差し出した。

優しく握り返してくれた彼女に言う。

「ありがとうございました。子どもたちとの約束を果たすことができました」

「よかったですね」と頷いた益田さんは、労わるような目で私を見つめた。

「次回のご搭乗をお待ちしております」

この旅行が済んだら二人の下へ行こうとしていた私は
一瞬、躊躇したけれど、「ええ、是非」と頷いた。

この1年間、生きる気力を失い、自分の殻に閉じこもりがちだった妻が、
涙をこぼしながら、それでも笑顔で益田さんとしっかり目を合わせていた。



沖縄は快晴だった。
ホテルにチェックインした私は、
「これで光穂と真との約束、果たせたね」と妻に笑いかけた。

「それで・・・どうする?」

この旅行が終わったら、子どもたちとの約束を果たしたら、
後を追うつもりだった。

久しぶりの旅行で疲労の見える妻は、
それでも家を発ったときよりもはるかに生気に満ちた顔で、首をゆっくり横に振った。

「やめておきましょう。
 だって、私たちがいなくなったら、誰があの子たちの話をするの?」

妻は自分の胸に手を当てた。

「ここに生きているあの子たちを、消すわけにはいかないもの」






“スカイタイム”より抜粋引用
『大空では毎日、奇蹟が起きている』オープンブックス


2万人以上の死者と行方不明者を出した東北大震災…
いまだに、海岸沿いには大きな傷あとが残る。

言葉に出せぬほど、悲しいできごとが多くあった。
だが、それらを乗り越え、歯を食いしばって、凛として生きている人たちがいる。

思いやり、温かさ、そして、生きる勇気…
心に深く刻み付けたい。



(ゆめこ注:携帯読者のために行間を詰めました。)

仕事の中でも 家庭でも 今いるところで
ひとに寄り添い 共感し 聞くことはできるが
そうする人は少ない

けれど こうして実践する人がいる

感動するだけにとどまらず 
実践する人でありたい

               ゆめこ






子どもが来てくれて 
わたしたちは親になったの

だから 
子どもの年齢と 親年齢はいっしょ
いくつになっても ずっと 同い年

だから 
子どもの誕生日が 親としての誕生日

子どもが1歳になったら 
ようやく親も1歳

子どもが歩き出したら 
ようやく親も歩き出したところ

親は先輩だけれど
子どもよりエライわけじゃない

赤ちゃんは 小さいけれど
魂が劣っているわけじゃない

なにひとつ出来ないことで
あなたの愛を 引き出してる

一番新しい情報をたずさえて
もっとシンプルに もっと楽に
もっと自分を愛して 
もっともっと幸せに生きられるように
それを伝えたくて あなたを親に決めた

あなたは 子どもにとって
一番早く幸せにしたい 大好きな人

完成されているからではなくて
ともに学ぶために選ばれた

選ばれた親として 
自信と 感謝と 愛をもって
子どもと一緒に 成長していけばいい

あなたの寂しさや 自信のなさや
自分をいじめるクセなど
子どもはみんな承知のうえで
あなたに決めたのだから

知ったかぶりもいらないし
できるふりもいらないよ

いいお母さんにならなくていいし
いっぱいいっぱいなあなたを
こどもは ちゃんと赦してる

「ありがとう」の感謝を忘れず
「ごめんね」を言う勇気や素直さ
「いいよ」と言えるやさしさを学んで

誰でも強さと弱さを持っていることを知り
ありのままの自分やひとを受け入れて
自分を好きでいられる生き方をする

そんな幸せの見本が そばにあったら
子どもは どれだけ安心でしょうか

「育児」って 自分を育てて
「自分を幸せにする」ことなのかもしれません









生きているだけで
愛されている…

こどもが生きていてくれるだけで
ありがたい

自分が生かされているだけで
ありがたい

わたしも  いつも
そう思っています



いま 私たちみんなに必要なので
face bookのお友達に教えていただいたこの記事を
ご紹介させていただきます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あずさからのメッセージ」

十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、
多数の子から殴ったり蹴られたりして
亡くなるという痛ましい事件が起きました。

それを知った時、私は障がい児を持った親として、
また一人の教員として
伝えていかなくてはならないことがあると強く感じました。

そして平成十四年に、
担任する小学五年生の学級で
初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」という授業です。

梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。
梓が大きくなっていくまでの過程を
子供たちへの質問も交えながら話していったところ、
ぜひ自分たちにも見せてほしいと
保護者から授業参観の要望がありました。

以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、
現在までに福岡市内六十校以上で
出前授業や講演会をする機会をいただきました。


梓が生まれたのは平成八年のことです。
私たち夫婦はもともと障がい児施設で
ボランティアをしていたことから、
我が子がダウン症であるという現実も
割に早く受け止めることができました。

迷ったのは上の二人の子たちに
どう知らせるかということです。

私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら
「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も書けないかもしれない」
と伝えました。

息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、
しばらくしてこんなことを言いました。


さあ、なんと言ったでしょう?
という私の質問に、子供たちは

「僕が代わりに書いてあげる」

「私が教えてあげるから大丈夫」

と口々に答えます。

この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが
グッと引き出されるように感じます。


実際に息子が言ったのは次の言葉でした。

「こんなに可愛いっちゃもん。
 いてくれるだけでいいやん。なんもできんでいい」

この言葉を紹介した瞬間、
子供たちの障がいに対する認識が
少し変化するように思います。

自分が何かをしてあげなくちゃ、
と考えていたのが、

いやここにいてくれるだけでいいのだと
価値観が揺さぶられるのでしょう。


さて次は上の娘の話です。
彼女が
「将来はたくさんの子供が欲しい。
もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」
と言ってきたことがありました。

私は 「もしそうだとしたらどうする?」
と尋ねました。


ここで再び子供たちに質問です。

さて娘はなんと答えたでしょう?

「どうしよう……私に育てられるかなぁ。お母さん助けてね」

子供たちの不安はどれも深刻です。
しかし当の娘が言ったのは

思いも掛けない言葉でした。


「そうだとしたら面白いね。
 だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」


子供たちは一瞬「えっ?」と
息を呑むような表情を見せます。

そうか、障がい児って面白いんだ――。

いままでマイナスにばかり捉えていたものを、
プラスの存在として見られるようになるのです。


逆に私自身が子供たちから
教わることもたくさんあります。

授業の中で、梓が成長していくことに伴う
「親としての喜びと不安」には
どんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。

黒板を上下半分に分けて横線を引き、
上半分に喜びを、
下半分に不安に思われることを書き出していきます。

・中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。
・やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。

将来に対する不安が次々と挙げられる中、
こんなことを口にした子がいました。

「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」。

理由を尋ねると

「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、
分かるようになればそれが喜びになる。
 意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば喜びに変わるから」

これまで二つの感情を分けて考えていたことは
果たしてよかったのだろうかと
自分自身の教育観を大きく揺さぶられた出来事でした。


子供たちのほうでも授業を通して、
それぞれに何かを感じてくれているようです。

「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、
 きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」
と言った子。

「町で障がいのある人に出会ったら
 自分にできることはないか考えてみたい」
と言う子。

「私の妹は実は障がい児学級に通っています。
  凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。
 でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」
と打ち明けてくれた子。

その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。

「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と
 私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、
 “梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、
 ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、
 あの子が言ってくれたんです……」

涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら
私も思わず胸がいっぱいになりました。


授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。

「あなたの息子は
  あなたの娘は、
 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。

  生意気な僕を
  しっかり叱ってくれるから

 無視した私を
 諭してくれるから

 泣いている僕を
  じっと待っていてくれるから

 怒っている私の話を
 最後まで聞いてくれるから

 失敗したって
 平気、平気と笑ってくれるから

 そして一緒に泣いてくれるから
 一緒に笑ってくれるから

  おかあさん
  ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね
  私のおかあさんになることがきまっていたんだね

  だから、ぼくは、私は、
  あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」


上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、
 お互いに学生時代、障がい児施設でボランティアをしていたからと答えたところ

「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる準備をしていたんだね」

と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。


昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、
梓を育ててくる中で得た多くの学びが、
いままさにここで生かされているように思います。

「お母さん、準備をしていたんだね」

という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。


是松いづみさん(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)
 2013年2月号 致知随想より

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(「幸せのカタチ」さんのコメント)

子育てをしていると子供に教わる事がある。
という事を私も何度も聞いた事があります。

・2つの感情を分けて考えていた事
・その子のお母さんになる準備をしていた事

「いてくれるだけでいい」
「いろんな子がいたほうが楽しいから」

あなたも知らず知らずにお母さん、お父さんになる準備をしているのかも(していたのかも)しれません。

障がいのある子にに対するいじめがなくなるように
また障がいのあるお子さんを育児中の親御さんに
是非シェアしてあげてください。





あなたが 

今 笑わなければ


先に鏡が笑うことは

ないのだよ


鏡が笑ったら

自分も笑おうと 待っていても


それは

永遠の 待ちぼうけ





ILLUSTRATION BY nyao nyaoチャ箱♪  
Copyright © Yumeko All Rights Reserved.


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