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*これは私の13~17歳までの日記を17歳の時に詩集「人ひとり」としてまとめたものから抜粋したものです
「苦しい時」
苦しい時
私はいつも明日のことを思うのです
バラ色の光の中で
海辺の丘に立つ明日のことを
空を抱きしめて
草原の上に横たわる明日のことを
そして 何よりも
空と海に向かって
声を限りに叫べる明日のことを
思うのです
だから そのために
きょうの苦しみは耐えようと思うのです
そして
それはその時だけでいいのです
苦しみが去った後では
決して
すんだことは思い出さないのです
(過去の関連記事)
4/21 詩集「人ひとり」によせて
http://blog.yumekosan.com/Entry/881/
4/23 ―誤解―
(詩集「人ひとり」より)
http://blog.yumekosan.com/Entry/882/
*これは私の13~17歳までの日記を17歳の時にまとめた詩集「人ひとり」から抜粋したものです
ー 誤 解 ー
自分の叫びを
文字をもって伝えようとするのは
簡単だけれど
淋しいなと思いながら
相手を許せる自分に満足するとき
私はそこに自己のささやかな価値を見い出す
言葉は人間が作った道具だから
時に使用者の心との間に
大きな亀裂を生じることもあるけれど
言葉をもって真の胸の内を主張せずとも
天は知れると思う心に
せめてもの安らぎを感ずる
50年たって66歳の私がこれを読んだとき、
インディアンの長老の言葉を思い出しました。
「その知恵を、若い時からずっと知っていたならば、
人生はどれほど素晴らしかっただろう、と言う人があるが、
老人のように生きる人生がワクワクするだろうか?」
せいぜい17才のこの「安らぎ」が、
私をたたかわない人生に誘ったのは確かだけれど、
私の冒険をどれだけ抑えただろうかとも思いますよ。(^v^)
どちらが正解ということではなくて、
私はそう生きるしかなかったのだと思います。
(過去の関連記事)
4/21 詩集「人ひとり」によせて
http://blog.yumekosan.com/Entry/881/
おおよそ50年も前 17歳の時に
死ぬことに逃げ道を求めていた生活に区切りをつけたくて
13歳からの日記を 原稿用紙にまとめて
時給50円のアルバイトで 詩集を自費出版した
1万円を握りしめて向かった印刷やさんが
「原稿を1日貸してごらん。
おじさんが読んでみて、出してもよかったら、
1万円で本にしてあげよう。」
そうして 印刷屋さんのご厚意で出版されたこの詩集は
当時の新聞を賑わすことになり
近隣の中学校では道徳の時間に
私が在学していた高校でも 倫理の教材になったことは
私には思いがけない展開だった
自分を死に追い詰めていったそれは
生への渇望だった・・・
13歳から17歳までの
愛おしい私である
詩集のタイトルは「人ひとり」
巻頭にこう書いてある
ーそれは自分が選んだ道であったー
自分が選んだということを
私はなぜか知っていた・・・それが驚きである
久しぶりに見つかった詩集を読み返して
とてもいま おすすめできるものではないけれど
私の中に まちがいなくあの頃の私がいて
あの時の私が まちがいなく今の私につながっていると
あらためて そのあとの半世紀を思ったところである
青果市場の野菜のカゴに囲まれて書いた「はじめに」と「あとがき」で
17歳の私が こんなふうに言っている
ーはじめにー
(前略)
広い道、細い道、平らな道、デコボコの道ーとにかくたった一つの道を生きながら、私はいつかきっと自分の足跡をふりかえって撫でてみたい。そんな時が来るだろうと思っています。その時には、詩集というにはあまりにもおこがましいこれらのらくがきが、どんなに道からそれていようと、不完全な足跡だろうと、それはそれでその時の私にとってはせいいっぱいの足取りであったろうとなつかしく愛撫してやるつもりです。
(後略)
ーあとがきー
「何になりたいか。」と聞かれると、私はすぐに「平凡な人」と答える。
ひとは常に”得られぬもの”を求めるという。
私にとって「平凡な人」とは、その”得られぬもの”のひとつであるのかもしれない。
(中略)
人間にとって、その人がどんな道を通ってきたかということは問題ではないと思っている。
問題は、その道から何を得てきたか、そしてその人間の心が、それをいつか自分のものとして他人に分け与えられるだけの広さを持っているか否かにあるのではないか。
(中略)
どんな苦しみでも、自分一人が通る道ではない。この人生において、大なり小なり違いはあるが、自分と同じ種類の苦しみで悩む者がきっと出てくるはずである。その時こそ、人が過去において苦しんだことの価値を見出す時であろう。その時まで昔を思わせない”平凡な人”であることが、私の尊敬する人間像であり、また私の望む未来像でもある。
・・・・・・
ちなみに「山田安岐(やまだあき)」というペンネームは、
その頃憧れていた平凡の象徴として山田を選び(その頃は漫画でも山田さんが多かった)
安らかに岐路に立つという、これもその頃の願望だったにちがいない。
さてさて 50年が経過した今の私は、
17歳の私が望んだ未来像に
少しは近づくことができているだろうか
こんなものが出てくると
しみじみと 実感する
人生は 実に あっという間だ
ここを通過点として いよいよ
かつての私の「尊敬する人間像」をめざすことにしよう
そしていつか ここを去るときに
17歳の私に 合格点をもらいたいものだ
「仏説父母恩重経」
(原文全巻)http://sketchyoshie.michikusa.jp/bumo.html
(対訳) https://piicats.net/bumo.html
私は 17歳の時にこのお経本に出会い、
感動して、一夜お借りして、
手放しで泣きながら、障子紙に書き写しました。
4歳になる前に両親と別れた私が、
その時どんな思いでこれを写したのか・・・
そのときはまだ、このような現代語訳はついていませんでしたが、
この原文が、現代語を読む以上に私の心に入ってきたのはよく覚えています。
書き間違えた箇所を切り貼りして、お経本のように折り畳み、
お菓子の箱の厚紙を表紙とした私の初めての写経本が、
いつの間にか手元から消えて、
それから30年後、別れて暮らして67歳で亡くなった母の
お仏壇の中から出てきた時には、
本当に、本当にびっくりしました。
3歳で別れた娘が17歳にして書き写したこの「父母恩重経」を、
母がどんな思いで読んだことか・・・と、
またしみじみと母を想ったことでした。
新学期の4月、保育園や幼稚園や小学校と、
はじめて母の膝を離れて、
はじめは泣きながら、
やがてバイバイと手を振れるようになるまでの
せつなく可愛いこの時期に、
親としての自分と、
子ども時代の自分を見つめた親の思いを想うことも、
すてきなことではないでしょうか。